2008-10-17

聖断

君は困惑していた。
どうしたらいいか、わからなかった。
君は今、とんでもない失敗をしてしまった。
庭の温室で飼い主の女性が大切に育てている植物に水をやっていて、細心の注意を払っているつもりだったが、伸ばしたホースが胡蝶蘭の花瓶に引っかかり、それを床に落として割ってしまったのだ。
花弁は無事だが、茎が折れ、高価な花瓶は砕け散ってしまった。
全裸に首輪だけという格好で温室内に呆然と立ち尽くしながら、君はその惨状を見下ろした。

どうしよう……。

君は激しく狼狽しながら、それでもひとまずホースの水を止め、胡蝶蘭を拾い上げると、それを予備の適当な花瓶に生けた。
しかし、折れてしまった茎が無惨だった。
咲き誇る花弁はまだ美しさを保っているが、茎が折れてしまってはいずれ死ぬだろう。

この白い胡蝶蘭は、君の飼い主である女性が、手持ちの植物の中でも特に愛している花だった。
しかも、それを生けている花瓶は、古い陶器のアンティークで信じられないほど高価なものだ。
それを君は自分の不注意から破壊してしまった。
もちろん、生きている花はいつか枯れるし、形あるものはいつか壊れる。
しかし、それを言い訳になんかできるはずがない。
花も鉢も、時の流れの中で自然に壊れたのではなく、君が壊したのだ。
それも同時に、自分の不注意以外の何物でもない愚鈍な行動によって、君が壊した。
そこに弁解の余地はない。
すべての非が君にある。
全面的に君だけが悪い。

君は一瞬、隠し通せるものなら隠し通したいと思ったが、奴隷の身分である君が飼い主の女性を欺くことなど許されるはずがなかった。
だいたい、この胡蝶蘭は、今夜には再び玄関のロビーに戻しておくことになっているのだ。
だから、どれだけ隠したとしても、数時間後には必ず事態が露見してしまう。
もちろん、その時まで露見を先延ばしにすることは可能ではあるが、全く賢明ではない。
そんな風にしてこの事が飼い主にバレたら、余計に問題が大きくなるだけだ。
よって、君がこれからとるべき道は、ただひとつだった。
正直に申告し、誠心誠意、謝罪し、許しを請うのだ。
そして、許されなければ、罰を受ける。
奴隷の君に選択肢はそれしかない。
嘘や隠し事なんて言語道断だ。

君は温室の隅にあるロッカーから箒とちり取りを持ってきて、花瓶の破片を集めてひとまずビニール袋に入れた。
そして、とりあえず植物のすべてに水を与え終えて、ホースなどを片付けると、改めて予備の花瓶に生けた胡蝶蘭の前に戻った。
陶器の破片を集めたビニール袋をその脇に置き、君はいったん大きく深呼吸すると、館内電話の受話器を取り上げ、飼い主の部屋に繋いだ。
すぐに向こうで受話器が取り上げられ、「なに?」という飼い主の声が聞こえた。
君は唾をごくりと飲み込んで意を決すると、「これからそちらへお伺いさせていただいてもよろしいでしょうか?」と謁見を申し込んだ。
「すぐ?」
女性が訊き、君は「できれば、そうしていただきたいです」とこたえた。
すると、女性は「では、すぐに来なさい」と謁見を許可し、君は礼を述べて受話器をフックに戻した。
ラインが切れた瞬間から、リアルな恐怖心がざわざわと細胞を揺さぶるように立ち上がってきた。
君はそれを追い払うかのように、破片が入ったビニール袋を持ち、予備の花瓶に生けた胡蝶蘭を抱えた。


飼い主の部屋の前で呼吸を整えてから、君はドアをノックした。
「入りなさい」
女性の声が聞こえ、君はそろりとドアを開けて「失礼いたします」と頭を下げてから入室した。
その部屋はプライベートな応接室で、毛足の長いクリーム色の絨毯が敷き詰められ、革張りのゆったりとした作りのソファが置かれた、広い空間だ。
そのソファに、君の飼い主である美しい女性が座っている。
君はその足元に進み跪くと、彼女の前に割れた陶器の破片が入ったビニール袋と、茎が折れた胡蝶蘭の花瓶を並べておき、「申し訳ございません!」と床に額をこすりつけた。

「なに、これは? どういうこと?」

女性が訊く。
君はひれ伏したまま、言う。

「温室で樹木に水を与えさせていただいていた際、愚かなわたしの不注意から、主様の大切な胡蝶蘭の花瓶を床に落としてしまい、このようにしてしまいました。本当に申し訳ございません。お許しください!」

「許す?」

そう言った後、女性は沈黙した。
君はきゅっと眼を瞑ってひたすらひれ伏しながら、飼い主の言葉を待った。
その無言の時間の重さに押し潰されそうだった。
しかし、依然として女性は無言のままだった。
やがて君は唾を飲み込み、叫ぶように言った。

「どんな罰でも謹んでお受けいたします。いえ、この愚かなわたしをどうか厳しくお罰しください。どうか、どうかご聖断を!」

君は体を精一杯小さくしてひれ伏し、額を床につけた。
後頭部のあたりに、飼い主の冷徹な視線をひしひしと感じた。
やがて、女性は、静かに言った。

「では、鞭打ちにするわ。百発くらいかしら? 庭で用意しなさい」

「はい!」
君はその聖断を謹んで承り、いっそう深くひれ伏した。
それは相当厳しい罰で、決して無傷では済まず、それどころか今後数日は酷い痛みに襲われることが明白だったが、なぜか君の心には歓びの気持が溢れた。
飼い主が与える処罰の聖断を、君は祝福のように聞いた。
しかし、そうはいいながらも本能的な恐怖心は拭いがたく、体がガタガタと震えた。
それでも、自分のミスが招いたことなのだから、お仕置きの享受は、君にとって幸福の範疇だった。

庭には、処罰の鞭打ちのための磔台が設えてある。
それは木製の十字架で、これまでにも何回か、何人もの奴隷がそこで鞭を打たれており、その厳しさの名残として、様々な部分に血痕が黒く沁み込んでいる。
百発の鞭が終わる時、君はおそらく満身創痍で、自力で歩くことすらままならないだろう。
処罰のための鞭は厳しい。
最初の数発で簡単に皮膚が裂け、泣こうが喚こうが、規定の回数に達するまで絶対に終わらない。
そして、たとえ終了後、歩けなくなっていても、救済措置はない。
歩けなくなっていたら、歩けるようになるまでそこに捨て置かれるだけだ。
灼熱の太陽が照りつけようが、凍えそうな冷たい雨や雪が降り出そうが、関係ない。
奴隷に対する処罰とは、そういうものだ。

「五分後に始めるわ。行きなさい」

女性が平坦な口調で命じる。
君は恐怖心から体をガタガタと震わせながら、「本当に申し訳ございませんでした。そして、お仕置きを、ありがとうございます」と言った。

女性は無言のまま君を見つめている。
君は恐る恐る、「申し訳ございません、この花と花瓶は如何致しましょうか」と茎の折れた胡蝶蘭と花瓶の破片の処理方法を尋ねた。

「後で誰かに片付けさせるわ」

女性は素っ気なくそう言い、行け、というように、顎をしゃくった。

「わかりました。失礼いたします」

君はもう一度丁寧に頭を下げ、素早く立ち上がった。
そしてドアのところで振り向き、もう一度丁寧に頭を下げた後、その部屋を辞した。

五分後以降の自分の運命については、あえて何も考えなかった。