2009-08-18

世界で最も醜い動物

窓の外は、深夜だ。
深い森の中に建つ瀟洒な洋館の一階、広いリビングに今、君はいる。
全裸で首輪だけを装着し、固いオーク材の床で跪いている。
森に面した大きなガラス戸は閉じられているが、カーテンは開け放たれており、君は跪いたまま、暗いガラスに白く映る自分の姿にちらりと視線を向けた。
いかにも奴隷らしい、何もかもを脱ぎ捨てた自由な姿だ。
実際、これから君はこの家で、あらゆる社会的制約を放棄し、一匹の奴隷あるいは家畜として飼われるのだから、本当に自由だった。
期限は特に決められていない。
飼い主の女性が君に飽きるまで、君はここで暮らす。
君は体ひとつでこの家へやってきて、名前すらもう失った。
それでも、もちろん君は君だし、さすがに戸籍まで抹消されたわけではないし、肉体的には一般的な人間のままだが、存在としての君はもうヒトではない。
とはいえ股間には男性器がぶら下がっているから種としての性別は「男」だが、せいぜい「オス」程度の識別でしかない。
どうせ、これからの君の世界はこの家の中だけで完結するから、生殖活動とは無縁の生活で、よって性別などほとんど意味がない。
そして、民主的な人間の社会には「権利」と「義務」というものがあるが、君にはもう「飼い主の女性に仕える」という「義務」しかない。
厳密にいえば、それは「義務」とは呼ばないかもしれない。
君にとって選択肢は「仕える」しかないわけだから、それは「義務」ですらない。
「必然」或いは「存在理由」だ。

「それじゃあ、今夜はもう遅いし、本格的な調教は明日の朝から始めるから、とりあえず今日はもう休みなさい。この先ずっとお前が暮らす居住区は地下にあるから、連れていくわ」

ソファに座っている美しい女性はそう言うと、手のひらで君を「おいで」と呼び、君がにじり寄ると、リードを君の首輪に装着した。
この瞬間、君は完全にこの美しい女性の所有物となった。
つまり、晴れて「飼われ」たのだ。
犬や猫と同等、或いはもしかしたらそれ以下の生活かもしれない。
というよりむしろ、おそらくは牛や豚といった家畜に近い暮らしになるだろう。
しかし、それはマゾヒストの君が自ら選んだ生活だ。

女性が、リードの端を持って立ち上がった。
ピンクのタンクトップに白いデニムのホットパンツという露出度の高いいでたちだから、細くはないが醜く太くもない適度に肉感的な脚が君の眼の前に誇示されて、君は思わずドキリとしてしまう。
その肌は小麦色に日焼けしていて、太腿の張りが夢のようなラインを描き出している。
君は一瞬その太腿を仰ぎ見るように凝視してしまったが、すぐに慌てて視線を外した。
奴隷の身分である自分が飼い主の脚を物欲しげに眺めるなんて無礼で失礼極まりないと気づいたからだ。

「行くわよ」

女性は君の内面の葛藤など意にも介さず、そのままドアへとゆっくり歩を進めた。
君はその後に続くように、正座の姿勢から腰を浮かし、両手を床について、犬のように四足歩行でその場を離れた。
すると、そんな君の格好に気づいた女性がつと振り向き、冷やかな目で君を見下ろした。

「そんな格好しゃなくて普通に歩いていいわよ」
「はい」

君は二足歩行を許可され、立ち上がると、すでに歩き出している君より背の高い女性の逞しい後ろ姿を追った。

廊下を進むと、突き当りにドアがあり、女性は鍵を使ってそれを開いた。
どうやらこのドアは、普段は施錠されているらしい。
ドアの先は、地下へと続く薄暗い階段だった。
その階段に差し掛かると、雰囲気が一変した。
それまでは、古風ではあるが木材と漆喰をふんだんに使った丁寧な造りの内装だったが、階段から先は、壁も床もコンクリートが打ちっ放しで、蛍光灯の白い光は無機質で弱弱しく、いきなり殺風景になった。
心なしか、気温も低く感じられる。
君は先を行く女性より二段ほど後を進んだ。

階段は、途中で一回、直角に折れ、階下へと続いた。
そして、下りきると、そこから一直線に廊下が伸びていた。
地下のスペースも階段と同様、壁も床もコンクリートが剥き出しで、ひんやりしていた。

「お前の部屋はこの先」

女性は言い、廊下の先を示した。
さほど長い廊下ではない。
しかし、異質な廊下だった。
というのも、進行方向左手は何もないコンクリートの壁で、右手には、動物園の檻のように、黒い鉄格子のブースが並んでいたからだ。

「ここにはこういう牢屋みたいな部屋が三部屋あるのだけれど、今は誰もいないの。だから、この地下はお前専用のフロアってわけ。といっても、もちろん勝手気ままには過ごせないわよ。廊下にも房内にもカメラがあって二十四時間監視下にあるから。勝手にオナニーなんかしたら、どうなるかわかってるわね?」

「はい」

君は、美しい女性の口から「オナニー」という露骨な言葉が発せられたことにドキドキしつつ頷いた。
許可なく自慰をすれば、激しい折檻を受けることになるのだろう。
自分にはもう自由に自慰に耽る自由も権利もないのだ。
そう思い、自らの立場を再認識しながら、君はまた歩き出した女性に続いて先へと進んだ。
そして、最初のブースの前に差し掛かると、その鉄格子の扉の上にだけプレートが掲げられていることに気づいた。
他の奥の房の鉄格子の上には何も無い。
君は何と書かれているのだろう、と興味を惹かれ、そのプレートに視線を向けた。
するとそこには、

『世界で最も醜い動物』

と書かれていた。
君の様子に気づいた女性が足を止めたので、君はそのまま、蛍光灯がぽつりと灯されている鉄格子の中を覗いてみた。
しかし内部には、大きな鏡が廊下に向けて置かれているだけで、他には何もなかった。
そして、その鏡には、中を覗き込んだ君の全身が映っていた。
そんな君の斜め背後に女性が立った。
背の高い着衣の女性にリードを持たれた貧相な裸の君。
その対比は鮮烈で、体格差も圧倒的なため、鏡越しに見ると、改めて存在としての差異が際立った。
そんな自分の姿を見て君はプレートの意味を把握し、「確かにその通りだ」と何の矛盾もなく純粋に肯定した。

「意味はわかったようね」
女性が冷たい微笑を浮かべた。
「お前は世界で最も醜い動物でしょ?」

「はい」

君は厳しい現実を突きつけられて項垂れるように頷き、傍らに立つ女性を控えめに仰ぎ見た。
その弱弱しい目を強く覗き込んで女性が言う。

「これから毎日、ここを通る時、必ずこの中を見て、その度に自分の立場を認識してよく噛みしめなさい」

「はい」

君が、自らを卑下するように怯えを宿した気弱な視線を向けながらそう答えると、女性は満足そうに微笑み、「行くわよ」とさらりと言って、ぐいっとリードを引き、再び歩きだした。