2005-07-14

金曜日の冒険

ほんの幼い子供の頃、通学路から一本外れた路地は、未知の空間だった。

この角を曲がると、先にはどんな世界が広がっているのだろう?

そう思いながら、しかし通い慣れた道に差し込む夕陽は、優しくいつもの場所を照らし続けていた。
その道から外れることに憧れはあったが、同時に恐くもあった。
もう二度といつもの場所には戻れないような気がして、小さな交叉点では目を強く瞑り、その憧憬を振り払うように急ぎ足で駆け抜けた。

君はそのようにして大人になった。
何かに導かれているという自覚はなかったが、何かを切実に求めて、そのためにシビアな選択を迫られてきたわけでもない。
邪悪なものはいつも、すぐそばにあった。
ただ、それには近づかなかった。
もしかしたらそれは邪悪ではなく、さらなる福音を告げるものだったかもしれないが、君は、いったん道を外れてしまったらもう戻れなくなるのではないか、という恐怖が払拭できず、誘惑は見てみぬ振りをしてクールにやり過ごした。


世の中は破廉恥で、様々な誘惑に満ちている。
商品化された『性』がメディアには氾濫している。
挑発的な女の子たちが、刺激的なヘッドラインを従えて妖艶な微笑を振りまいている。


君は二時間の残業を終えて、インターネット・カフェに入った。
夕食はインスタントヌードルで済ませた。
味気ない食事だが、とりあえず腹は膨れるし、何より安上がりだ。
君は週末の夜、ネットカフェでコンピュータと向き合う。
そしてブラウザを立ち上げてネットに接続し、パスワードを入力して自分専用のオンライン・ブックマークへアクセスする。
そこには、君の暗い欲望を静かに煽動する、おびただしい数のアダルトサイトが登録してある。

君は今夜、ささやかな決意を胸に秘めていた。
それは、今夜こそSMクラブへ行こう、と思っていたのだ。
君はこれまで自分でそれを認めてこなかったが、どうやらマゾヒストであるらしかった。
女性から辱められることに、異様な興奮を覚えるのだ。
いつからそういう指向になったのか、その時期は定かではない。
しかしこの数年、君はその願望と戦い続けていた。
このような嗜好は、当たり前の男性として間違っている、そう思っていたのだ。
それでも、もう限界だった。
そろそろそれを認めなければならない頃合かもしれない、と君は最近そう思い始めていた。

もう何十回となくチェックしているSMクラブのウェブサイトを開く。
そのサイトには、在籍している女性の写真が豊富にあり、欲望を刺激する様々なキーワードが鏤められている。
クラブへ行くなら、初めてのときはここにしよう、と君は決めていた。
理由は、いくつかあった。
ひとつは、場所が比較的、自分の生活圏に近く、馴染みがあること。
そしてもうひとつは、写真で見る限りだが、自分好みの女性が何人か在籍しているからだ。
君は緊張しながらサイト内を移動し、在籍女性のプロフィールを見ていく。
今夜の君にとって、もっとも重要なチェック項目は出勤日だ。
君は上着の内ポケットから手帳を取り出して、金曜日のこの時間に出勤している女性の名前を書きとめていく。
そして最後にクラブの電話番号を書き写し、何度も確認してからその手帳を閉じ、ポケットに戻した。

果たして、どんな経験が待ち受けているのか。

それを思うと、たまらなく緊張した。
しかし、もう決めたのだ。
このネットカフェを出たらクラブに電話をし、予約をする。
そうすれば数時間後には、これまで長い間ひとりで夢想してきた暗く眩い世界が目の前に開けるのだ。
それは君にとって未知の場所だ。
子供の頃は恐くて、通学路から外れる路地へ足を踏み入れることは出来なかったが、そろそろ目を開いてその角を曲がってみてもいいだろう。
君は、これから自分が旅立とうとしている金曜日の夜のささやかな冒険に、心を震わせた。

君はブラウザを閉じ、椅子の背凭れに背中を預けて力を抜いた。
そしてキーボードの脇に置いてあるマグカップに手を伸ばし、温くなってしまったコーヒーを一口飲む。

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