2006-07-19

深夜の散歩

「ほら、行くわよ」

スーツ姿の美しい女性が全裸の君の首輪にリードを繋ぎ、引っ張る。
君は四つん這いのまま腰を落とし、ほんの少しだけ抵抗する。
時刻は午前二時を回っているが、このままの状態で路上へ出るのは、さすがに恥ずかしい。
しかし、女性は容赦ない。
抵抗を無視し、君の背後に回って尻を蹴る。

「さっさと動きなさい」

強引にリードを引いて女性はドアへ向かう。
君は観念し、フローリングの廊下に手をつき、膝をついて、ゆっくりとその後に従う。
股の間で萎えた性器が揺れている。

ドアを出ると、吹きさらしの廊下は蛍光灯に照らされている。
女性は無言のままエレベーターへ向かう。
ハイヒールの踵が刻む硬質な靴音が、やけに大きく反響する。
君の掌と膝にはザラザラとしたコンクリートの床の感触が伝わっている。
君は心の中で強く、誰とも出会わないことを祈りながら女性の後を追う。
全く自分と関係の無い場所ならまだ良いが、ここは君が普段暮らしているマンションなのだ。
こんな姿を近所の住人に見られたら、君は多分もうここでは暮らせなくなるだろう。

エレベーターに乗って一階へ降り、ガラス扉を抜けて路上に出る。
七月の深夜の路上は、まだ熱帯夜というほど暑くはないが、空気は熱を帯び、湿っている。
君はもう全身に汗を掻いている。
しかしそれは、暑気のせいばかりではない。
君は喉がからからに渇くくらい緊張している。
そして俯いてアスファルトを見つめながら、女性に引かれていく。

掌と膝頭が、ざらついたアスファルトに擦れて痛い。
掌には細かい砂利が食い込んでいるし、膝は皮膚が破れかけて悲鳴を上げている。
君はあまりの痛さに耐えかねて、膝を浮かすと、四つん這いの姿勢は保ったまま足の指を折り曲げて着地させ、体を支えた。
それで痛みはずいぶん軽減された。
しかしいっそう不安定な体勢になったので、腰への負担が増した。
ほんとうなら立ち上がってしまいたかったが、それは許されない。
なぜならば、君は女性の飼い犬だからだ。
しかも、それを望んだのは君自身であり、途中で放棄することは決して許されない。

深夜の路上は無人だった。
集合住宅が密集する地域のため狭い街路の周囲は、まだ窓明かりがいくつか灯っているマンションやアパートばかりだが、行き交う車はなく、ひっそりと静まり返っている。
そんな静寂を切り裂くように、女性の靴音だけが響いている。
どこかで激しく犬が吠えだした。
それほど近くではなかったが、君は心臓を鷲掴みにされたみたいに硬直し、怯える。
頭の中は完全に「この姿を誰かに見られたらどうしよう」という不安と恐怖に支配されている。
生温い夜風が吹いて、君の全身を撫でていく。
剥き出しの背中に鳥肌が立つ。

女性は常に君の三メートルほど前方にいる。
一度も君を振り向かない。
ただリードを持ち、歩いている。
君は女性からあらかじめ、「もしも誰か人が来たら、一瞬のうちにリードを離し、全くの他人としておまえを無視する」と言われている。

青白い光を灯す水銀灯の下に差し掛かる。
女性の着ている鮮やかな白いスーツが、まるで夢のように夜の中に浮かび上がる。
君の淡い影が、路面に伸びる。
女性は光の領域から離れて闇の中で足を止め、振り向く。
そして、ちょうど街灯の下にいる君に言う。

「そこで犬みたいにオシッコをしなさい」

光の中にいる君からは、女性の表情までは判別できない。
しかし一瞬、女性の顔の前でぼうとオレンジ色の光が浮かんで、その表情が見えた。
女性が煙草に火をつけたのだ。
そして、その顔は、冷笑に覆われている。

煙草の匂いと煙が微かに流れてくる。
君は水銀灯の支柱に近づくと、命じられたとおり、犬と同じ格好をとった。
つまり、排尿の為に右足を上げたのだ。
しかし、極度に緊張しているせいか、なかなか出ない。
女性が闇の中から言う。

「早くしなさい。誰か来るかもよ? ふふふ」

「はい」

君は小声で応え、意識を膀胱に集中させる。

「はい、じゃないでしょ? おまえは犬なんだから『ワン』でしょ」

女性の声が、静かな夜の路上で思いのほか大きく感じられる。
君は目を瞑り、上げた足をワナワナと震わせながら「ワン」と言い直す。
そして、更に膀胱に力を込める。
早く出してしまって、この光の領域から逃れたい一心だった。

やがて、尿が出た。
しかし、性器は萎えて下を向いているため、それは街灯の支柱まで飛ばず、そのまま路面に落ちる。
飛沫が、アスファルトに膝をついている君の足にかかる。
さらに、路面を温い液体が流れて、君の掌まで濡らす。

ふと前方に目を遣ると、闇の一点で、時々オレンジ色の小さな光が瞬いている。
女性が煙草を吹かしているのだ。
その明滅の度に女性の周囲の闇が溶け、唇を歪めてあからさまに軽蔑の含み笑いを洩らしている女性の美しい顔立ちが浮かび上がる。

女性が煙草を足元に落とし、それを踏み消す。
オレンジ色の小さな光が落下して、路面で消えた瞬間、君の放尿も止まった。
女性が訊く。

「終わった?」

君は反射的に「はい」と答えそうになったが、思い止まり、「ワン」と言った。

「じゃあ、行くわよ」

再び女性が歩き出す。
リードが引かれて一瞬首輪が喉に食い込む。
君は自分の水溜りを路面に残して、四つん這いで女性の後ろ姿を追う。

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