2007-06-28

秘密の庭

君は、その家の門を潜る度、心を躍らせる。
月に一度、君は週末を利用して金曜日の夜から日曜日の夕方まで、その家で過ごす。
通い始めてそろそろ一年になる。

その家は、高原の別荘地の一角にあり、周囲は深い木立に囲まれている。
君は金曜日の夜の最終に近い新幹線に乗り、駅からはタクシーでその家へ向かう。
新幹線の駅からその家までは、夜中だから道は空いているし、二十分程度だ。
昼間であれば近くまでバスが運行されているが、最終が午後四時台なので、間に合わない。
毎月通うとなれば、それなりに出費がかさむが、君は生活費を工面してその小旅行の費用を捻出している。
実質的に、往復の交通費だけで滞在に関しては費用がかからないので、昼食のレベルを落としたり、買い物リストを少し削れば、小遣いの範囲でどうにかなる。


君はその家の門の前でタクシーを降りた。
自動車がそのまま敷地内へ入っていけるようになっているため、門扉の幅は広い。
周囲は深閑とした闇で、タクシーが去ると、完璧に無音の世界となった。
明かりも、重厚な門に取り付けられた柔らかい灯だけだ。
表札の類いは掲げられておらず、格子の門扉の先に、まだ建物は見えない。
君はほとんど手ぶらに近い。
荷物は、ふだんから使っているブリーフケースだけで、着替えの衣服等は持っていない。
緩めていたネクタイを締め直し、君は門へと近づく。
門柱に取り付けられた監視カメラが音もなく作動して君を捕捉する。
その存在を知っている君はいったんカメラに顔を向けた後、インターホンを押す。
そして、ラインが繋がると、相手は無言だったが、君は短く名前を告げた。
すると、やはり何の反応もないままラインが切断され、数秒後、門扉が自動的に開いた。

君は門を潜り、背後ですぐに閉まり始めた音を聞きながら、敷地内を進んでいく。
コンクリート舗装のドライブウエイが曲がりくねりながら先へと伸びていて、しかも上り勾配になっている。
道の両側は、ほとんど森だ。
街灯代わりの常夜灯が、森の木々を地面から白くライトアップしている。

道を進んでいくと、やがて、ようやく建物が現れる。
三階建ての、石と木材をふんだんに使って白い漆喰で固めた、赤い三角屋根が特徴的な洋風の建物だ。
建物から突き出した屋根付きの車寄せの隅に、完璧に磨き上げられた銀色の古いジャガーが止まっている。
君はその車寄せから玄関に入った。
暖かい光の下に立ち、木製のドアに取り付けられている真鍮のノッカーを叩き、唾を飲み込む。
いつも、この瞬間は緊張する。

やがてドアが開き、燕尾服を着た初老の執事が静かな笑顔で君を出迎えた。
「ようこそ」
「お世話になります」
君は丁寧に言い、頭を下げた。
「では、どうぞ」
執事が手のひらで屋敷内を示した。
ドアを入ると、いきなり広いロビーだ。
赤い絨毯が床に敷かれ、三階まで吹き抜けになっている天井にはシャンデリアが飾られ、煌煌と明かりを点している。
ロビーは無人で、しんと静まり返っていて、ソファや暖炉があり、正面は全面がガラスになっていて、その先に手入れの行き届いた庭が広がっている。
芝生の起伏が重なり合い、木立が配された広い庭は、夜の今、カクテル光線で微妙な陰影を浮かび上がらせている。
「さあ、こちらへ」
執事が先に立ってロビー横切り、細い廊下を進んでいく。
その両側には適当な間隔でドアがあるが、どれも固く閉ざされている。

やがて、ひとつのドアの前で執事は立ち止まり、鍵束の中からひとつの鍵を選び出してキーホールに差し込むと、古風な音を響かせてドアを解錠した。
「どうぞ。ごゆっくり」
ドアを開けて執事が言う。
「どうもありがとうございます」
君は礼を述べて部屋に入る。
背後でドアが閉じられ、廊下側から鍵がかけられる。

その部屋は、三畳ほどの広さで、壁際に、バスタオルが畳まれて置かれている作り付けの棚と簡単なシャワーブースがあるだけの、殺風景な小部屋だった。
反対側にもう一枚ドアがあり、窓はない。
しかし天井にはカメラが設置されている。
君はブリーフケースを棚に置くと、スーツの上着を脱いでハンガーにかけ、タイを外し、ゆっくりと煙草を一本だけ吸った後、ズボンもシャツも下着も靴下も全部脱いで裸になった。
そしてシャワー使った。
髪を洗い、たっぷりと時間をかけて体も隅々まで洗って、歯も磨く。
シャワーを終えるとブースから出て、バスタオルで全身を拭った。
髪は短いので、ドライヤーがなくても大丈夫だった。
そうしてさっぱりすると、君は腰にバスタオルを巻いてブリーフケースを開けた。
中から革製の首輪を取り出して自分でそれを首に巻く。
君は首輪を装着し終えると、バスタオルを腰から外して畳んで棚に置いた。
そして、部屋の先にあるドアを開けた。

ドアを開けると、そこはもう外で、鬱蒼と茂る木立の中、比較的大きい平らな石を敷き詰めた遊歩道が夜の先へと伸びていた。
君は全裸のまま裸足でその歩道を歩いていく。
樹木の香りを内包した涼しい夜風が全身を撫でていく。
木立の中に所々水銀灯が設置されていて、そのエリアに差し掛かる度、こころもち猫背になっている君の淡い影が歩道に落ちる。

そうしてしばらく進むと、ロビーから見えた庭の隅に出た。
その隅には粗末な犬用の小屋があり、地面に打ち込まれた杭に鎖だけが取り付けられていた。
君は小屋まで進むと、地面に膝をつき、鎖の端のフックを自分の首輪に繋いで正座をする。
小屋の周囲を監視するように、上空の樹木の枝にカメラが設置されているが、もちろん君はその存在を知っている。

小屋の前に清潔な金属製のボウルがあり、その傍らに、水滴が付着した新品のミネラルウォーターのペットボトルが一本だけ置かれている。
君はそのペットボトルを持ち、栓を開けると、二リットルの五分の一程度の中身をボウルに注いだ。
そして、カメラの存在を意識しながら地面に両手をつき、四つん這いになってボウルに屈み込み、冷たい水を啜って喉を潤す。

これから日曜の午後まで、君はこの庭で過ごす。
それは誰も知らない秘密の時間だ。
何が起きるかはわからない。
小屋の中には一枚だけ薄い毛布が敷かれている。

やがてひとまず喉の渇きを癒した君は体を起こし、手の甲で口元を拭って夜の先へと視線を投げる。
微かな風に揺れる樹木の葉擦れの音以外、何も聞こえない。

静かな夜だ。
芝生の起伏の先に、ロビーの窓明かりが見えている。

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